Patagonia Report-Fitzroy of Patagonia Expedition




フィッツロイへの道


 車内に土埃が舞っている。サングラスが土埃で曇ってくるので袖口で拭う。車のフロントグラスの向こうにはパタゴニアの荒野、パンパが広がっている。時計を見る。カラファテの町を出て2時間、埃の中を走っているがすれ違う車はない。その間、窓越しの風景は変わらない。動くもののない荒野が続いている。荒野と言ってもこれはすべて牧場だ。南米アルゼンチン南部、パタゴニアの主産業は羊毛。そのための羊を飼う牧場が今目の前に広がっている荒野だ。一説には一平方キロ当たり2頭の羊しか飼えないと言う痩せた大地。数千とも数万とも言われる羊達は今頃どの辺りをさまよっているのだろうか。

遠くに黄色く色づいたポプラが見える。この地方ではポプラは防風に使われる、つまりそこには人が住んでいると言うことだ。間もなくポプラ並木の下に赤い屋根の家が見えてきた。看板にホテルとある。車を寄せる。町を出てから最初の家だ。車から降りると強風に煽られて少しよろける。ホテルとは名ばかりでどう見ても納屋だ。ドアを開けるといきなりバーカウンター。髭の男がこちらをにらむ。東洋人は珍しいと見える。二言三言言葉を交わしコーヒーだけで外に出た。

私は今フィッツロイ山へ向かっている。登るためではない。クライマーでもない私にもとより登れるはずもない。ただ、見るためだ。この地でガイドを始めて何年にもなるが、やはりこの山は別格だ。奇岩峰が群雄割拠するパタゴニアでもフィッツロイは他を圧倒している。私には見るだけで十分だ。

名ばかりのホテルを出て再び車を走らせる。80km/h以上で走っているのに強い追い風で自分が巻き起こした土埃に自分の車がすっぽりと覆われてしまう。こうなるとやっかいだ。視界がまったく効かなくなる。危険なのでスピードを落とし土埃をやり過ごしながら走る。急ぐ必要はない。トラブルさえなければどんなにゆっくり行っても明るいうちに山麓にはたどり着ける。

北へ向かっていた道が大きく曲がって巨大なビエドマ湖畔を西へ向かう。晴れていればここから正面にフィッツロイが見えるはずだが厚い雲に覆われて、山があることすらわからない。よくあること。そう言えば昨日の夕方、まだ200kmも離れているのに夕日の中、ほんの小さくシルエットに浮かぶフィッツロイが見えた。悪天候が当たり前のパタゴニアでは珍しいことだ。

幅20mほどの川に掛かる細い橋を慎重に渡る。ここまで来れば目指すチャルテンの村はすぐそこだ。チャルテン。フィッツロイ山とセロ・トーレ峰のために作られた村。人口100人足らず。丸太で組んだ雑貨屋とバーのほかはほんの数えるほどしか家がない。これでも以前よりはにぎやかになった。

村はずれの川の近くにテントを張る。日はまだ高い。草原に仰向けに寝転がると空が広い。が、ちょうど真上の辺りを境に東半分は真っ青な空が広がっているが西側半分は雲に覆われている。フィッツロイの背後にある氷床上空から流れて来る雲がパンパ上空で消えているのだ。この地方の天候の不思議がここにある。麓は晴れているのに山が見えることはほとんどない。フィッツロイ山の現地名はチャルテンと言う。先住民の言葉で「煙を吐く山」という意味だ。煙突のごとくいつでも山頂付近から雲を引いているところからその名前が付いた。それほど雲が切れない。

翌日、歩いた。村の突き当たりの登山口からフィッツロイへ向かう。と言ってもベースキャンプまでは行かずにルート途中から少し入ったところにある湖の近くにテントを張った。この湖、名をカプリ湖という。湖畔のブナ林の中に快適なキャンプ地がある。ザックを置いてテントを張ると湖まで降りて手と顔を洗った。他にテントは見えない。ここはみな立ち寄らずに素通りしてしまうらしい。水が冷たい。風が湖面を越えて吹きつけてきて濡れた手がしびれる。

ちょっと厚着をして近くの小高い岩山に登る。山を見るためだ。吹きさらしの岩棚の上に生えている木はみな一様に風下側にねじ曲げられている。ここはそれほど風が強い。10分ほど登って森の木々より高いところに出ると突然視界が開ける。フィッツロイの方角を振り返るが相変わらず厚い雲の中だ。その下に目を移すとブナ林が紅く色づいている。このキャンプ地の辺りはまだ緑色だが、氷河に近いところから紅葉が始まっているらしい。平らなところを選んで膝を抱いて座る。フィッツロイ山群の麓に広がる氷河から流れる川が緩やかに蛇行して眼下を横切っている。

どのくらいそのままでいたのだろうか。気が付くと太陽が西に移りフィッツロイの雲の中に吸い込まれていった。陽が陰ると急に気温が下がった。山の下の方の雲が切れてきたのでもう少し粘ったが、結局根負けして降りることにした。立ち上がって伸びをするが、寒風のなか縮こまっていたので体がこわばって地に足が着かない。ぎこちなく岩棚を降りる。風邪をひいたような悪寒がした。

キャンプ地に戻るが相変わらず誰もいない。テントの中で寝転がってしばらく本を読む。森全体が風に揺すられているような音を立てているが、キャンプ地は木々に守られて静かだ。

このキャンプ地にはクライマー達の手作りと思しき小屋がある。材料はその辺に落ちていた倒木と枝と言ったところ。それでも中には石で炉が組んであり、火をおこすと言いようのない安堵感が広がる。湖から水を汲んできて取り敢えずお湯を沸かした。麓の雑貨屋で買ってきたベーコンの塊から厚めに一切れ切り取る。先をとがらせたブナの枝に刺し火にかざす。そのまま一旦テントに戻りワインとカップを取ってきた。ワインは1リットル入りの紙パック。ミネラルウォーターよりも安かった。ナイフでパックの口を切りカップに注ぐ。ぐっとあおるとワインの渋みと共にアルミの味がした。懐かしく、心地よい味。もう一口飲んでから炙ったベーコンを枝に刺したままかじる。更にもう二切れ切り取ると同様に枝に刺して火にかざした。アルゼンチンは肉の国だ。肉ならば何を食べてもうまい。ステーキ肉などキロ200円くらいの安い奴でも十分だ。今回は日持ちを考えてベーコンにしたが本当は肉を持ってきたかったくらいだ。ワインだってこんな小さな紙パックじゃなくて5リットル入りの籠に入った瓶のが良かったのだが、こっちはちょっと重すぎた。

たき火を見ながら飲んで食べていたらいつの間にか飲み過ぎたようだ。急に酔いがまわってきた。火を落とし、取り敢えず目に付いた物だけ持つと立ち上がった。外は相変わらずの風だ。パタゴニアは緯度が高いので夏は夜でも薄明るい。見上げると木々を透かして空が薄明るく見える。テントへ戻って寝袋にくるまると髪の毛からたき火と脂のにおいがした。パタゴニアには熊はいないのでどんなに食物のにおいをさせていても安心なのが良い。夜通し風の音がして眠りは浅かった。

翌朝、テントから顔を出すとすっかり明るくなっていた。息が白い。木々の間から湖面が朝日に輝いているのが見える。それでも森の中は薄暗いので起き抜けの目にも眩しさはない。シュラフから抜け出しテントから出る。靴を履いて立ち上がったとたん、靴ひもが絡まり落ち葉の中を転がった。やはり夕べ飲み過ぎたらしい。体が濡れ雑巾のように重い。昨夜の小屋に入ると小さなネズミが数匹逃げていった。火をおこす。水を汲みに湖まで降りると朝日に目がくらんで思わず顔をしかめる。それでも薄目を開けて見上げるとフィッツロイは相変わらず雲の中だ。小屋に戻りお湯を沸かす。取り敢えずコーヒー。

チーズをかじりながら今日の予定をたてる。と言っても考えるまでもなく停滞と決めた。この山を見るにはここが一番だ。これ以上近づくとかえって見えにくくなる。膝の上の屑を払うと表に出た。テントに戻りまたぞろ厚着をし、本を持って昨日の岩棚へ上がっていった。眼下、遠くベースキャンプへ続く道を馬が3頭進んでいくのが見える。ガウチョ(カウボーイ)がクライマーの荷物を運んでいるのだろう。フィッツロイ山に懸かる雲は昨日より幾分高くなって、今日は腰(?)のあたりまで見えている。思わず期待してしまう。

フィッツロイ山のすぐ背後にはパタゴニア南氷床という巨大な氷河の大陸が広がっている。私がいまさらされているのはその氷床から吹き下ろしてくる風だ。夏だというのに身を切るように冷たい。氷床上で冷やされた空気がパンパへ向かって流れ落ちてくる。これがパタゴニアの風の正体だ。だからいつも同じ方角から吹きつけて、止むことも滅多にない。この風はまた雲でもある。この風を遮るように立つフィッツロイ山の雲が切れないのは仕方のないことともいえる。それでも今日は風向きが昨日と違う。たなびく雲が左から右へ横向きに流れている。波を打つように雲が高くなったり低くなったりしている。と、そのとき雲の波がひときわ大きくうねり、視界が突然広がった。

山が現れた。

この瞬間のために私はここに来たのだ。山はわたしが雲の中に思い描いていた形より一回りもふた回りも大きくそびえ立っている。例えようもなく大きい。目の前にこれだけ大きなものがあると言うことが信じられない。何回見てもこの感動は最初と変わらない。それほどまでにこのフィッツロイの山容の雄大さはすばらしい。これが見たいがために、この感覚を味わいたいがために、私はここにいるのである。

私はよろめきながら岩棚の上に立ち上がり両手を広げた。そしてゆっくりと深呼吸をする。その息をはき終わらないうちに山は再び雲に覆われていった。

(了)